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秋山瑞人文体模倣:序論4

情景描写

秋山文体の情景描写は「情景が目に浮かぶ」「臨場感がある」とよく評される。私もそうした見解に異論はない。ないのだが、しかし秋山文体は本当に情景が目に浮かぶことを意図して書かれたものなのだろうか。

E.G.コンバット3rdのあとがきを思い出して欲しい。そこにはこう書いてある。

わたしは基本的には夢見がちなオトコでありまして、「文章でしか表現できないこと」があると固く信じているフシがあります。本文を書くときも、「文章で表現してこそ面白くなる切り口を探して書こう」といつも努めておるつもりであります。

あっているかどうかはさておき、自由間接話法による地の文と内面描写の意図的な混濁、繰り返しによるリズム感も「文章で表現してこそ面白くなる切り口」であると言って間違いではないだろう。しかしそれだけでなく、情景描写においてもこれはやはり意識しされているのではないか。

具体例による比較

例として秋山とは全く異なる文体のラノベから、視点人物が最初に見た光景を描写した部分を抜粋してみる。

 最初に視界に入ってきたのは、焼け爛れた肌のような赤黒い空だった。
 カンナは見知らぬ森の中に立っていた。
 葬列のような陰気に佇む痩せ細った木々の隙間から、深い闇が覗いている。足元には白い粉で描かれた五芒星と円。その円に沿って、奇妙な記号が書かれている。その周りを数十本の黒い蝋燭が囲い、さらにそれを囲って成人男性ほどの高さの石柱が複数本立っている。
 少し先の地面に、顔のない鼠に吸盤を鏤めたような、見たことのない小動物の死骸が転がっている。真ん中から裂け広げられた腹には銀色のナイフが突き立っている。
黒史郎『未完少女ラヴクラフト』)

情景こそ異様だが分かりにくさは無く、読んでそのまま情景が理解できる文章と思う。次に秋山瑞人による「視点人物が最初に見た光景の描写」の例を見てみる。

 想像していたよりもずっと大きな島だった。
 これほど大きな空も三百六十度の水平線も生まれて初めて見た。宗教画のような夕日に照らされて、巨大な雲海を背後に従えて碧の海に佇む島の姿は本当に圧倒的だった。こんな光景はテレビでも見たことがない、無理にカメラを向けてシャッターを切ったらフィルムが火を噴くかもしれない。変化に富んだ海岸線、素人目にも本土のそれとは異なる植生、夕日の中で一斉に方向を変える海鳥の群れ。
秋山瑞人ミナミノミナミノ』)

この2つの文は、どこが違うのか。

秋山の文には短い名詞句の繰り返しがある点は前回示したので今回は割愛すると、情報量それ自体は実のところ前者の方が多い。その最たるものが位置情報で、黒史郎はどこに何があるのかをきちんと書いている。

対して秋山の方は島のうしろに雲があることはわかるが、太陽の位置はよく分からない。島の後ろにあるなら逆光ということになり、海岸線の複雑さや植生の違いを視認できるのか疑問である。そもそも360度の水平線ということは一度ぐるっと首を回して確認したのだろうか。

秋山の文章は、情景描写力に優れているという印象があるにも関わらず、それぞれの事物の大きさはさっぱりわからないし位置関係も不明である。これでは作者の脳内に描かれた情景を読者に正確に伝えることなどできるはずがないし、それどころかそうした意図を全く持ちあわせていないようにすら思える。

だが、だとすれば秋山の文章が効果的に伝えようとしているのは情景ではない、ということになる。では何を伝えることに特化した文なのか。この点で、それは感情ではないだろうかと私は考えている。

秋山は、その場の視点人物の感情と同じものを、その情景描写で読者の内面に惹起させようと果敢に試みているのではないか。

例えば「変化に富んだ海岸線、素人目にも本土のそれとは異なる植生、夕日の中で一斉に方向を変える海鳥の群れ」が連想するものは間違いなく人によってバラバラだろう。そしてたぶん、それでいいのである。各自が想像する最も圧倒的な南の美しい島を見た時の感情を読者の胸に去来させることが重要なのであって、それが作者の想像するそれと一致している必要は全く無い。位置関係に関する詳細な情報など無くても感情の惹起には影響ないし、混乱を招く可能性があるなら無いほうが良いに決まっている。

そして秋山は視覚情報だけでなく聴覚に関しても積極的に使う。

いつまでも鳴り続けている電話のベル、何かを追いかけているパトカーのサイレン、どこかで原チャリのセルモーターが回り、誰かがジュースを買って自販機に礼を言われた。
秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏 その1』)

これもまた、前から聞こえるのか後ろからか、遠いのか近いのかといった位置関係はまったくわからない。だがこれを読んだ時のなんとなく不安な心持ちは、この場にいる浅羽のそれと殆ど同じものだろう。そして視点人物の感情と自分の感情が同期すると(あるいはそのような錯覚を覚えると)、そこで感情移入と没入感、臨場感が生じるように思われる。

人物描写

情景描写と似たところがあるため、人物描写についても書いておく。

秋山は人物の外見についてあまり細かい描写をしない。例えば髪の長さや髪型は全く分からないことが多く、女性であっても胸の大きさなどの情報は一切無い。身長はどれくらいなのかすらも間接的な表現が多い。

対して服装やしぐさに関する情報は比較的多い。ただし服装はその性格や立場、状況を示すための情報であり、読者に彼女を可愛く見せるために使われることはまず無い。

どういう来歴を持ち、どういう性格の人物なのか、という情報を間接的に伝達する傾向が強く、真面目とか優しいといった直接的な性格の表現は好まず、容姿に関する情報を一切与えないまま性格を示す描写だけが登場場面で示されることもある。

妙に男っぽい動作でベンチに腰を下ろし、つい三日前にきっぱりやめたと宣言したはずの煙草に何の迷いもなく火を点ける。
秋山瑞人ミナミノミナミノ』)

もちろん、細かく人物描写がされている箇所も多い。せっかくなので、この点は瑞っ子を公言し、実際文体も似たところがある九岡のそれと比較してみたい。

具体例による比較

 年の頃は十代の半ばほどか。背は低めで童顔であり、少し垂れ気味な豆柴のような目をしている。陽光を受ける黒髪は埃をかぶって少し白くなっているが、ちゃんと洗えばなかなかのものだろう。背中の真ん中辺りまで伸びた髪をおさげに編んでおり、歩む度に右に左に揺れるそれは子犬の尻尾のようでもある。
九岡望エスケヱプ・スピヰド』)

この九岡の描写は、少女に豆柴の子犬めいた印象をつけつつ、身長、容姿、髪型含め、具体的に読者が彼女を想像することができる文だと思う。一方、秋山による少女の描写の例を示す。

 そのマーキングを別にすれば、クリスマスはどこからどう見ても、ことによるとまだサンタクロースの存在を信じているかもしれない年頃の、人間の女の子のように見える。すぐ怒るくせにすぐ泣きそうな目をしている。怒っても泣いてもドラキュラのように目立つ大きな八重歯をしている。ランダム制御の神様は右の目尻にホクロをくれた。もともと深い鳶色をしていた髪は、色素の酸化が進んですっかり白っぽくなってしまったけれど、これはこれで似合っていると言えなくもない。
秋山瑞人猫の地球儀 焔の章』)

八重歯やホクロはともかく、髪が長いのか短いのかすら分からないし、身長に関しても直接的な言及はない。表紙絵がなければその外見に関する読者の想像図はバラつきが大きいだろうが、一方、どういう人物かの内面・性格に関する伝達力はやたらと強く、どういう時にどういう反応をしそうな人物かという点で読者の想像のバラつきはおそらく低い。

視覚的な意味で「どういう人物か」ではなく、どういう雰囲気でどういう性格でどんなことをしそうな人物か、という情報が秋山文体では中心に扱われている。視覚的な情報はそれを示唆するための道具に過ぎない。このように静的な容姿への依存度が極めて低い状態で人物を魅力的に描くがゆえに、秋山の小説の登場人物は猫でもミサイルでもクジラでも変わらず魅力的にうつる。

では秋山は人物の魅力をどう描くかといえば、その言動によってである。

例えば伊里野との出会いの場面、表紙の絵に引きずられている部分が大きいとはいえ、読者はほぼ間違いなく幻想的な美少女を想像するだろう。しかし彼女が美少女であるなどという表現は一切無い。「可愛い」とすら書かれていないし胸の大きさに関する言及なども一切無い。あるのは溺れていたのを助けた際、深夜の誰もいないプールでやむなくタバコ一本分の距離に密着したという行動であり、だがこれだけあれば普通の容姿の子であっても破壊力は十分だろう。

情景描写同様、その人物が魅力的であると理解されれば、読者はその言動をするに相応しい最も魅力的な人物を各々で勝手に想像するのであり、その外見を統一する必要など全く無い。その点で言えば、容姿に関する微に入り細を穿つ情報は邪魔ですらある。

別に美人だとか綺麗だとかいった直接的な描写を避けるべきだ、というつもりはない。秋山の小説においても普通に使われている箇所は少なからずある。ただここぞという箇所においては、可能な限り読者にとって魅力的に思える言動は何か、という点を意識し、静的な情報でそれを補おうとすることは避けた方がいいように思われる。