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秋山瑞人文体模倣:序論3

もうすぐUFOの日である。

前回の投稿日を見たら2年前で笑ったが、あまり気にせず続きを垂れ流すことにしたい。

秋山文体の心地よさ、あるいはリズム感

早速だが秋山文体は読んでいて独特の心地良さがあり、時にリズミカルな印象を受けることがある。これは何に起因するのだろうか。

韻の可能性

この点について先日、秋山文体は韻を踏んでいるのではないか、という仮説を唱える人を見かけた。興味深い意見である。小説においても例えば“Involution Ocean”は頭韻などの詩的技巧を駆使して書かれている。著者はブルース・スターリング――秋山瑞人の同人時代のペンネーム、葵星円の元ネタである。

もちろんあれを原文で秋山が読んだ可能性は殆どゼロだし、スターリングはその後そうした詩的技巧に凝ったりはしていない。ということで影響が無いことは私も分かっているが、とはいえ面白い意見だし、検討してみる価値はあるだろう。

秋山瑞人の商業作家デビュー作の冒頭は次のように始まる。

 目を閉じて、座学教室をイメージする。
 その中に自分を置いてみる。略式平服を着ている。クリップボードを小脇に抱え、教壇の上に凛々しく立ち、背後にはALF。個室に備え付けられているようなのじゃなくて、積層表示の可能な、映画館のスクリーンみたいなでっかいやつ。
 うん。ここまではいい。
 教官なんだから、帽子くらいは好きなものをかぶってもいいと思う。中帽はやめ。"BLACK TIP"というロゴの入ったキャップをかぶせて、外から自分を眺めてみる。
 よし。
秋山瑞人E.G.コンバット』)

「する」「みる」「いる」「F」「やつ」と文がu音で連続して終わり、「うん」を無視すれば次がi音で終わっている。「やめ」を除けば再びu音で終わり、そして再び「よし」とi音で終わる(執拗に何度も読み返している瑞っ子ならFにごまかしがあることに気づくだろうけど見逃して欲しい)。

最後の母音が揃っているということは、つまり脚韻である。九鬼周造の『日本詩の押韻』に曰く、韻は言葉にリズム感を持たせる効果を持つ。秋山文体独特のリズム感はこの脚韻によって生じたものだという主張は、こうして見ると一定の説得力を有している。

しかしながら、これだけではうまくいかない。一つ例を挙げる。

「あなたはDNA生まれですか?」
 ラケシュはその質問を失礼だと思った。もし彼がその情報を、通りすがりの他人のだれでもが知る権利のあるものだと考えているなら、それは彼の〈大要〉に含まれているはずだから。けれど、一瞬湧いた怒りは、好奇心に場所を譲った。このよそ者は、わざと不愉快なことをいったか、当然至極な理由があってその質問をしたかだ。どちらにせよ、今日、身のまわりで起きたことの中で、これほど興味を引かれることはない。
グレッグ・イーガン『白熱光』山岸真訳)

泣く子も黙る現代ハードSF最高峰の一人、グレッグ・イーガンの『白熱光』冒頭である。第一文から第五文までa音で終わり、最後だけi音で終わる。……これは秋山の例と同様に脚韻のはずだが、しかしこれにリズム感があると思う人はいないだろう(もっともいかにもイーガンな文であり、これはこれで好きな人はいる。実際、人は選ぶが極めて面白い小説である)。

繰り返し

E.G.コンバットの例が脚韻と認識できることは事実である。しかしそれは意図されたというより、別の意図の結果として生じた副産物だと私は考えている。

おそらく秋山文体は韻というより、より広い意味での「繰り返し」を意識している。

E.G.コンバットの例は見ての通り、第一文から第三文まで「(名詞)を(動詞終止形)。」が繰り返され、第四文と第五文は名詞文で揃えられている。そこから先は文単位の繰り返しにはなっていないが、長い段落と、それに対する話者の感想がひらがなで書かれた短い段落、という繰り返しになっている。

小説の文の多くは動詞文であり、日本語文法上、概ね文の最後に動詞か助動詞が配置される。日本語には母音が5種しかないため、この時活用形を揃える、あるいは過去形にするとその最後の母音は高い確率で同じものになる。白熱光で最後の音が揃っているのはこれが理由である。

「繰り返し」は読んだ時に心地よさとリズム感を読者にもたらす。もちろん万人にそれがもたらされるとは私も思わないが、不定音詩において「繰り返し」は頻繁に見られる技法である以上、その効果は錯覚ではないだろう。

ここでいう「繰り返し」は文構造の繰り返し、動詞活用形の繰り返しや脚韻にかぎらず、もっと直接的な同語反復や畳語法も含むものである。

 次は本気で当ててくる。それはわかっている。
 どのくらいまで本気で当ててくるのか。それはわからない。
秋山瑞人鉄コミュニケイション1』)

ルノアはもう次の獲物を狙っている。GOODYEARの頭のどこかを狙っている。
秋山瑞人E.G.コンバット3rd』)

あるいは句単位での脚韻も秋山文体ではよく用いられる。

あたりは暗く、当たり前のように誰の姿もなく、遠くの物音が意外なほどはっきりと耳に届く。
秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏 その1』)

偶然だろうが、このイリヤの例は二重韻――「暗く」「なく」でakuという音が揃っている点に触れておきたい。最後の母音一音を揃えることを単純韻、このように二つ揃えるものを二重韻と言い、九鬼周造によれば二重韻の方がリズム感を与える力は強い。意図的な文体模倣を試みるなら、効果を高めるためにもこうした技法を知っておいて損はないと思う。

繰り返しの効果が生じる条件

岩野泡鳴や九鬼周造によれば、脚韻は短文で効果を発揮する。これを少し拡大解釈して、繰り返しはそれが短く類似性が大きいほど効果的である、としてもそれほど間違ってはいないだろう。

文の長さと文の構造という点でE.G.コンバットの例を見ると、第一文から第三文まで短く、同じ構造が揃っている。第四文と第五文も句単位で見れば短く、類似性を見て取れる上にいずれも名詞文である。対して白熱光の例では第一文、第二文は長さはともかく文構造がまるで異なっていて、第三文はあまりに長い。

秋山も長い文はよく用いるが、句で区切れば比較的短いことが多い。またその前に短い繰り返しを入れたり、その繰り返し文を少しずつ長くしたり、と助走をつけることがあり、こうした細かい配慮が読みやすさに繋がっているように思われる。

また、繰り返しは同質なものに揃える必要がある。

 朧はもちろん猫で、牡で、おいぼれで、最後のスカイウォーカーだった。
秋山瑞人猫の地球儀 焔の章』)

 晶穂は密かに呼吸を整える。伊里野の正面に回り込んで行く手を塞ぐ。身を屈めたままの伊里野めがけてあくまで強気な視線を投げ下ろす。猫のケンカだって高い所にいる方が有利だ。
秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏 その3』)

前者の例は「猫で」「牡で」「おいぼれで」とごく一般的な名詞を並べてから「最後のスカイウォーカーだった」という異質な造語を登場させているし、後者の例では繰り返し文は外形的な行動描写という点で(文構造でも「(名詞)を(動詞終止形)。」で)揃えられており、繰り返し構造の破れに内面描写の自由間接話法(あるいは語り手のツッコミ)が配置されている。

段落単位でもこうして繰り返しとその破れを用いることで、上げてから落とす、あるいは下げておいてから上げる、という小さな緩急をつけることができる。読んでいてテンポの良さを感じる要因の一つはここにあるのではないだろうか。

まとめ

以上が秋山文体のリズム感に関する現状の私の認識である。

一つ付け足すと、これまでに述べてきた繰り返しとは少しレベルが異なるが、秋山小説では場面単位の繰り返しが散見される。

例えば『E.G.コンバット2nd』は格納庫で誰かが泣いている場面に始まり、もう一度格納庫で誰かが泣いている場面があり、そして格納庫でみんなが泣いている場面で終わる。『イリヤの空、UFOの夏』では、伊里野に見つめられた末に浅羽が「トイレ」と呟く場面が本をまたいで繰り返される。

この時秋山は、そこで繰り広げられる行為や発言それ自体は同じでありながらそれが示す意味を変える傾向がある。格納庫の涙も浅羽のそれも、初回のそれはいわばしょーもないものであり、だからこそそれが深刻な意味を伴って繰り返されることで読者の胸に突き刺さる。場面の繰り返しは娯楽物語の作劇上広く知られた手法ではあるが、秋山はこれがとりわけ丁寧で、全く同じ台詞を使うなど読者にわかりやすいように思う。文体というと少し違うと思うが、秋山小説の特徴の一つであることは確かだろう。

なお、繰り返し構造を持っていないのに妙にリズム感がある文章が秋山文体で存在することは認識している。たぶんあれはあれでまた別の何か要素があるのだと思うが、ひとまず「繰り返し」については書いておこうと思った次第である。

その他雑感

それぞれごく短いけれど秋山文体の特徴だと思っている雑感をいくつか。

ラフな口語表現

E.G.コンバットの例にある「ようなのじゃなくて」「でっかいやつ」「やめ」など、秋山文体ではラフな、あるいは子供っぽい口語表現が時折使われる。いかにも子供っぽい登場人物による会話表現でこうした表現が使われることは別に他の作家でも珍しいものではないが、そういう発言は絶対にしそうにない人物も、内心表現としてこういった言葉を使う傾向がある。

たぶん秋山的にはスラングの延長表現なのではないかな、となんとなく思っている。

読者に対する信頼

秋山はスカンクワークスが何かを説明したりしない。しかしスカンクワークスが何か知らなくとも文脈からそれが何かは見当がつくし、それで問題はない。「この世界に生きて繁栄している知的生物は猫だけである」という情報を「もちろん猫で」に圧縮するように、秋山は読者が自力で十分補完できることは説明を省く(イーガンの「あなたはDNA生まれですか?」もそうだが、こうした読者の理解力への信頼はSF小説の作法なのかもしれない)。

こうした読者への信頼は特徴的な表現として現れるわけではない。が、わかっていることをいちいち説明されることは親切ではあるが、ある意味では読者をバカにしているとも言え、それがないことが秋山文体が読んでいて心地いい理由の一つであるかもしれない。

サイバーパンクSF小説の影響

秋山文体が黒丸翻訳の影響を受けていることは、特にその造語にルビを振りまくるスタイルからも周知の事実と思う。ただギブスンやスターリングの小説は正直読みやすい文とは言いがたいと思うし、物語のSF的姿勢はともかく、ルビ以外で文体に影響を受けていると言う人はあまり見ない。

一方で秋山がこれらの小説を愛読していたことは概ね事実と思う。ということでそういう意識で探してみると、次のような箇所があったりする。

 ケイスは二十四歳。二十二の頃は、カウボーイであり、やり手であり、《スプロール》でも一流だった。
ウィリアム・ギブスンニューロマンサー黒丸尚訳)

アフリールは体節のある生物の首のない頭を観察した。口と鼻孔はついている。眼柄の先には退化した球状の眼もついている。電波受信機かと思える蝶番上の小板があり、キチン質の三つの板状器官の中に伸びる二本の並行する隆起の上には密生した触覚がうごめいている。その機能は見当もつかなかった。
ブルース・スターリング『巣』小川隆訳)

こじつけだ、と言われればそれを否定することはできないのだけれど、読みにくいギブスンやスターリングの文の中にこうした文がたしかに混ざっていて、こういう読みやすい箇所が秋山に吸収され、再構築されて生まれたのが秋山文体なのかもなぁ、という。

情景描写

秋山文体における情景描写は実のところ情景を描写していない、という説を去年ぐらいから持っているが、ちょっとしっくりこない部分があるので整理できたら次回にでも書こうと思う。