秋山瑞人文体模倣:序論1

序論1

秋山瑞人とは

秋山瑞人を知らずにこのブログを読む人がいるのかわからないが、おそらく秋山瑞人の文章を知らずにこれを読んでもなにも面白くないと思うので、なにか一冊買って読んでみることをお勧めする。

端的に言えば、ここ10年で新作を 3つも 発表した人気ラノベ作家である。

これを書いている最中で一番新しいのは「SFマガジン700【国内篇】」に入っている「海原の用心棒」(書かれたのは10年前だけど)。もしなければ、「イリヤの空、UFOの夏」なら大きめの本屋にならあるはずなので、その1巻の冒頭10ページでいいから読んでみてほしい。E.G.コンバットの方が私は好きだけど。

話の筋自体は大したものではない。SFの名作として猫の地球儀を挙げる人がいるが、センスオブワンダーはゼロである。繰り返す。そんなものはない。それを期待して読んだであろう人の「SF名作と聞いたから表紙絵に我慢して読んだけどなんだこれ糞じゃねぇか」という感想を見るたびになんとなく申し訳ないといつも思う。展開もワンパターンで、だいたいクライマックスで主要人物の誰かが死ぬ(ミナミノに死ぬ気配ないしEGCは毎度踏みとどまってるしDBは絶対死ぬけど一応まだ死んでないという話はさておく)。あっと驚く見事などんでん返しなんかもさっぱりない。

では何がいいのか、褒めるようなところはあるのか。
少なくともラノベにおいて、最高峰の日本語を使う作家である。

秋山文体とは

秋山瑞人によるその特徴的な文体のことを以下「秋山文体」と称する。この「文体」という表現はわりと面倒で、一度くそまじめに文体論を調べたものの、結論としては論者の数だけ定義があり、ろくに共通見解はできていなかった。

例えば文体類似度を測ってくれるサイトがあるが、あれでいう「文体」は計量文献学としてのそれであり、例えば小林秀雄の言うそれともバイイの言うそれとも全く性質が異なる。
それらを加味して秋山瑞人の「文体」と正面からぶつかろうというなら、少なくとも次のような視点でそれぞれ検討する必要があると思う。

  • 文体論
  • 読者論
  • 物語論
    • 焦点化
  • 構文論
    • 自由間接話法
    • 格助詞:「が」と「は」
    • 時制
  • 計量文献学

それぞれ論文3つ4つ読んだだけでしんどいことこの上なかったので諦めた。
セカイ系物語の典型としてイリヤばかりが云々されることが多いからだろうが、秋山はその文体にもう少し目が向けられるべきだ的な主張をしている人がたまにいる。
ではやってみろと言いたい。
というかぜひやっていただきたい。
私には無理だった。

さて、本稿ではあくまでこの辺がそれっぽい、といういくつかの断片的な、その修辞技法からの指摘にとどめている。ガチンコでやると敗北しか見えないからであるが、従ってラフな内容である。おそらく注意深く読むと見当違いな内容であることもあるだろうが、そのあたりはまぁ所詮ブログだしどうでもいいだろう。

本稿の目的

瑞っ子です!と公言する作家はたまにいるし、ラノベ作家ワナビです><秋山先生の大ファンです><とかもよくいる。では文体はどうか、といえば、まぁお察しである。

なぜか。なぜパクれないのか。

日本語配列の組み合わせ問題であるのだからパクることは理論上は不可能ではない(サルだってシェークスピアを書ける)。劣化品でいいからその香りだけでも誰かなんとかひねり出せよというのが正直なところで、本稿はそのための踏み台になるべく記述したものである。10年で3冊はやっぱりちょっと厳しいんです。
従って本稿の目的は、分析ではない。模倣のための分析である。秋山文体がセカイ系でどうのこうの、精神分析がどうのこうのといった言説へは糞して寝ろ以外の感想はない。いかなる日本語の用法によって秋山文体が実現されているのかを解明し、それによっていつかどこかのワナビが見事な秋山模倣文体を構築することを願ってやまない。

なお、念のため記載しておくと秋山瑞人が本稿で記述されているような文法上の効果を意識して使っているとは微塵も思っていない。間違いなく適当に感覚で書いてる。重要なのは結果の模倣であり、秋山本人がどういう意図で記述しているかではない。

シーザーを理解するのにシーザーである必要はない。


既存の秋山文体への言説まとめ

秋山文体それ自体が学術的な研究対象とされたことはないが、個々人による秋山文体に関する言説は存在しているため、ここではそれらを俯瞰し、その整理と妥当性の検証を行う。

秋山瑞人の文章は、自由間接話法が多いことから、要するに翻訳調であるのだとよくいわれますね。けれど秋山瑞人の文章は自由すぎて、翻訳調っていわれてもピンとこないっていう人は僕だけではないはず。三人称文体であるのに常時一人称視点で進み、しかし唐突に神視点の三人称が挟まるというのが、秋山文体の最大の特徴であると僕は思っています。

http://adzunjan.tumblr.com/post/1150282491

さらにあの独特の文章が生み出す疾走感はどうだ。にぎやかで、情報と情熱に満ちた文体はどうだ。いかなる説明もただの説明で終わらせまい、読者に退屈させまい、というサービス精神はどうだ。

http://www2.tokai.or.jp/LOOP/akimizu.htm

氏の作品の特徴はとにかく生々しい臨場感とキャラの息吹を感じさせる濃厚な文体

http://hsyfrzn.blog129.fc2.com/blog-entry-114.html

リズムカルで映像喚起力が高いその文章

http://www.geocities.jp/summerrefrain/booka.html

彼の文体は普段は三人称なのですが、要所要所に一人称の文章が挿入されている形式を取っています。
これは、秋山瑞人が漫画を描写していることに起因します。
漫画では吹き出しの外にも文章が書かれることがありますね。(中略)秋山瑞人の人称混合は、こういった漫画の描写を小説に落としこんでいるからこそ起こるのです。そして彼の素晴らしいところは、一人称の部分が漫画でいう吹き出しの外の文章に当たっていると、読者が自然に受け入れられる描写になっている点です。
(中略)
また、秋山瑞人自然主義と記号主義を行ったり来たりもします。(中略)不死身のギャグキャラクターの世界から、血肉を持った生身の人間の世界に変貌するのです。この自然主義と記号主義が同じ世界に成立しているのもアニメや漫画の特徴の一つですね。この落差を物語に利用するのが秋山瑞人お得意の手法になっています。
(中略)
「アニメやマンガを描写した小説」それがライトノベルの本質です。 この認識が、秋山瑞人の自由自在な描写を支えているのです。

http://blog.livedoor.jp/fuyuougi/archives/cat_45999.html

例えば2巻で出てくる以下の表現なんかは、あまりにも秋山なんですよ。このシーンは、主人公の女性教官ルノアの教え子達が、初めて実戦に巻き込まれたときの描写です。(中略)
『コントロールを失ったGARPは、三機以上のスラスターが開くという危険な状態のまま、高速度で転倒
―もう!昨日もやったでしょ!?起動中にシステムがダウンしたときは―
しなかった。突然、五人の手が機械のように動いた。』
(中略)これと似たような描写は、例えば最新刊「DRAGONBUSTER」にも見られます。
(中略)一つの文章を途中で区切ってしまい、句点で終わらせない、というのはよく秋山氏が使う手法なんです。(中略)こうした文章が、一つ一つのシーンを印象的に描き出すことに成功しているように思いますね。特に、上記のように「動き」を描写するときには有効な書き方であると感じました。
(中略)実際に作品を読み進めていくと、この都合の良い設定にしっかりとしたリアリティーを感じるのです。
なぜかというと、ディテールが異常なほど細かく書かれているから。訓練校の設定なんかでも、訓練生達が着る服に始まり、イジメの話だの、員数合わせ(参考:http://hirayan.okigunnji.com/backnumber/55.htm)の話だの、(中略)こうした細かなエピソードの一つ一つが、この「都合の良い」世界観を立体感のある「リアル」なものにしているんですよねぇ。
以上、秋山瑞人はは最初からもう秋山瑞人だったというお話でした。

http://d.hatena.ne.jp/degarasi/20090121/1232545114

秋山瑞人は「誰の内面を描くか」を徹底している。浅羽以外の人物の心情を描く場合には、きちんと章を分けて「その人物が主人公となる物語」として書いている。
この文体は【A】よりも主人公を客観視している。だが、【C】ほど付き放してはいない。ほどよく感情移入できる文体だと言えそうだ。

http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20101105/1288946223

このように色々な「秋山文体とは」がネットには溢れているが、整理するとよく述べられるいくつかの点が浮かび上がってくる。

まず表現的特徴としては、

  • 三人称視点で進めつつ一人称視点が混ざる
  • 自由間接話法が多い
  • 章を分けて「その人物が主人公となる物語」として書いている
  • 神視点
  • 翻訳調

次に秋山文体の特徴的な効果として、

  • 疾走感、リズミカル
  • 映像喚起力が高い、生々しい臨場感
  • 感情移入できる

といった点にまとめられる。以下、これらの妥当性を検討する。

自由間接話法

自由間接話法は多くの人にとっては耳慣れない文法用語と思うが、Wikipediaを参照すると下記のように説明されている。

間接話法の場合、引用文を「言う」「尋ねる」等の動詞を用いて全体を締めくくり、「彼は……言った」「私は……尋ねた」のような枠をなす節の中に引用文が入る。この(中略)伝達節を欠く間接話法(中略)を自由間接話法(free indirect speech)という。
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端的でわかりやすい説明ではあるが、Wikipediaでこれを調べた際、この説明の出典が『小説の文体: 英米小説への言語学的アプローチ』であることを意識した人は少ないだろうと思う。

自由間接話法はシャルル・バイイによって命名されたもので、英仏語と同じような時制や文法を持たない言語においては必ずしも同一の定義が適用できない。

従って例えばロシア語や中国語においても直接的に定義が使えないし、もちろん日本語でも細かくやりだすとわりと面倒な論争になる。
ここでその定義論争をするつもりはないのでおおよその共通見解を用いるが、まとめると『登場人物の言葉がそうとは明示されない形で地の文に混じった表現形式』と言ったところだろう。
このことから、一人称と三人称が入り交じる、という指摘は単に自由間接話法のことであると言える。

『章を分けて「その人物が主人公となる物語」として書いている』も自由間接話法によるものだと言える。
自由間接話法は伝聞であると記号的に明示されないため、文脈や断片的情報から判断する必要があり、高度な読解力を読者に要求する。

秋山文体が読みにくい、という表現をする人がたまにいるが、挿入されてくる一人称視点の発言主が誰かを動的に推測することが要求される以上、これはまったく自然なことだと思う。読解力とは別にそういった推測が苦手な人はいると思うし、そういった人にとって秋山文体は非常に読みづらいだろう。

当然、地の文に混じり込む登場人物が複数存在する、となると読者はさらに混乱する。そのような事態を回避するため、章を分けることによって話の流れをいったん切り、自由間接話法で地の文へ混じり込む登場人物を交代させる、ということをせざるをえなくなる(ちなみにE.G.コンバット1巻では矢継ぎ早に発言主の交代を行っているが、短い段落で明示的に段落を分けているあたり、読者の混乱を最小化したいという思惑がうかがえる)(いや本当にそう思ってやったのかどうかは知らんけど)。

以上から、自由間接話法が秋山文体における重要な要素であると言えるだろう。

では、この自由間接話法はいかなる効果を持つのか。
感情移入である。
とりわけ登場人物への共感、親近感を効果的に高めることができる手法であり、これが使われた登場人物は「こちら(読者)側」だと暗黙に理解される。つまり、何を考えているかわからないヤツ、という印象がなくなる。
逆に言えばこの手法が使われない登場人物は、どこか読者およびその手法が取られた人物とは一線が引かれた存在であることの強調にもなる。
「何を考えているかわかるヤツ」を出すことで「何を考えているのかわからないヤツ」を強調することにもなっており、これは水前寺や榎本のような超人性、イリヤのミステリアスさの強調にも使われているといえる。

従って、上記から次のようなことが言える。

読者に共感を持ってもらいたい登場人物については、積極的に自由間接話法を使っていくことは秋山文体の一要素となる。
ただし登場人物が一度に登場する場面において、段落ごとにその主体を切り替える、ということは読者に無用な混乱を招くため、ある程度の段落や章で区切るまでは継続して同一人物に対して行う。
逆に、ミステリアスさ、超人性を持つ存在に対しては自由間接話法を用いるべきではない。
その特徴を十分に強調してから自由間接話法を彼らに対して用いることは一気に親近感を持たせる効果を生む。が、逆に言えばそれによってミステリアスさ、超人性の喪失を意味することを理解しておく必要がある(水前寺は彼を主体とした文体で行われたのちに敗北を喫した)。


ジュネットの「語り手」とその効果

『神視点』についての多くの指摘は自由間接話法に対する無理解によって出てきた発言と思われる。が、自由間接話法では説明できない部分があるのも事実で、例えば次の文である。

苦しまなかったはずである。

未読者にとっては意味のわからない例で申し訳ないが、ここまで読んでいる人間で未読者がいるとも思えないのでそのまま進める。

神視点なら神らしくその万能性を以て「苦しまなかった」と断言するべきである。是非そうしていただきたい。一方で一人称体であれば「苦しくはなかった」と表現されるべきで、それに越したことはない。

「はず」とはなんなのか。
その他人事のような表現はいったいなんなのか。

あえて用いられたこの「はず」がいかにも上っ面であることを読者に示唆し、致命的な絶望感を読者に与える効果を生んでいる。実際にはこのあとに続く一連の事実の羅列でさらにこの「はず」の無責任さは強調されることになる。

秋山文体に登場するのは神ではなく、「語り手」である。

焦点化理論によって一世を風靡したジュネットは語り手を「作中に登場する透明人間」と表現し、わりとボロクソに叩かれてこれは言葉の綾だと撤回したそうだが(孫引きにつき真偽不明)、こと秋山文体においてはこれほど見事に言い表した表現は無いと思う。

透明人間の語り手は作中に存在して、そこで見聞きした内容を読み手に伝達する。三人称体である場合、語り手は作者と同一視されがちであり、そして作者とは作品内容すべてをコントロールする神である。

ところがここで「はず」が出てくるせいで、語り手はその場にいて、起きたことを読者に伝える能力しかない、無力な語り手であることが暗黙に伝えられる。つまり、事態が語り手にとっても操縦不能であることが明示されるわけである。

この「無力な語り手」を秋山文体はここぞというところで用いる傾向があって、上述の例とは逆の効果を生んでいる例として次がある。

もう少し先まで読めばいいのに。

未読者にとっては意味のわからない以下略。
無力な語り手が個人的見解として読者の願望を述べることで、それが作中に存在する語り手にすら叶えられないことであることが明示される。そのことが読者のもどかしさを掻き立てる要素になっていることから、秋山文体の効果の一つとして挙げられている「感情移入できる」の一つの要素であると言えるだろう。


この無力な語り手の登場頻度はかなり低く、ここぞというところで使うことが望ましい。
また、無力な語り手は読者の代弁者でなければならない。その場面において読者ならどうしたいか。それができずに何を願うか。
それを適切に見極めると同時に、誰もがそう思うようストーリーをコントロールしてやる必要がある。
その意味では、この手法を用いることで特定の効果を生むというより、この手法を用いることでその一連の場面が読者にもたらす効果を増幅する、という方が効果の説明としては適切だろう。

*1:リーチ&ショート(2003)『小説の文体: 英米小説への言語学的アプローチ』研究社、筧壽雄監修、瀬良晴子ほか訳